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标题: 卢沟桥 [打印本页]

作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 06:45     标题: 卢沟桥

政治背景自1937年日本二·二六兵变以来日本国内政局动荡不安,政府迫切需要转移国内民众视线,解决接踵而至的经济、政治问题。而《何梅协定》签定后中華民國政府在华北的势力锐减,客观上为日本发动战争提供了有利条件。
日本早在明治维新时期,在确立近代天皇制的同时,迅速走上了扩张侵略的军国主义道路,并制定了以中国、朝鲜为主要侵略对象的所谓“大陆政策”。20世纪初叶,日本于日俄战争后取代沙皇俄国,在中国东北扩大殖民势力,屯驻关东军,设立殖民机构“南满铁路公司”,把东北作为对中国殖民扩张的基地。
第一次世界大战期间,日本利用西方列强无暇东顾,极力扩大对华侵略,出兵山东,胁迫袁世凯接受日本妄图鲸吞中国的“二十一条”,把侵略魔掌伸向中国内地。一次大战后,日本企图通过加紧掠夺中国朝鲜 和其他亚洲国家,摆脱政治、经济危机,在1927年的“东方会议”上对侵略中国问题进行了精心策划。1931年9月18日,日本发动“九一八事变”,对我国东北发动突然袭击,3个多月就占领东北全境。翌年日军进攻上海(一· 二八事变),并攻占大片华北土地,威逼平津,又在东北建立伪“满洲国”、在华北搞所谓“自治运动”,妄图长期占领 这些地区。1936年日本制定的总体战略计划——“国策基准”出笼后,日本举行了一次“将官演习”,向参加演习的将官交代了全面发动侵华战争的战争部署。
此后,日本增兵中国东北,抽调精锐部队关东军进驻平津一带,频繁举行军事演习进行挑衅,伺机挑起战争。1937年7月3日,关东军参谋长东条英机向日本政府提议立即给中国以打击,随即于7月7日发动了七七事变。7月9日,中日双方交战部队曾达成口头停火协议。但同时,日本乘机从中国东北和朝鲜抽调2万多军队和百余架飞机投入华北地区。7月17日,日本陆军参谋本部制定了《在华北行使兵力时对华战争指导纲要》,日本政府决定动员40万兵力,妄图用武力灭亡中国。
1936年西安事变和平解决后,中國國民黨中國共产党达成协议共同抗日,两党再度走向联合, 即第二次国共合作
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 06:48

盧溝橋事件:Marco Polo Bridge Incident
1931年9月18日の柳条湖事件以来,日本は満州国を建国し,東北地方(東三省)を支配下に置いた。 1933年1月,日本軍(満州防衛の任に当たった関東軍)が山海関を占領。2月23日,西方の熱河省へ侵攻。翌24日には満州での日本の軍事行動に対する国際連盟の非難に反発した日本は,国際連盟を脱退。 1937年5月7日,関東軍は、万里の長城を超えて,関内(華北)に侵攻。北京(首都ではないので正式には北平),天津を攻撃。 ①南京を首都とする中国国民党政府は,共産主義勢力の排除,内政優先の「安内攘外」を基本方針として採用した。
②米英列国は,ナチス・ドイツやソ連への対応を優先し,中国問題に介入しなかった。
③満州事変は,1933年5月31日の停戦協定(タンクー協定)で終結。中国国民党政府は,長城以南に非武装地帯の設定,満州国への通車・通郵手続きの承認など,日本に大幅に譲歩。タンクー停戦協定によって,中国は,事実上,満州国の日本支配を黙認した。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 06:50

1937年8月23日の第15歩兵大隊。7月7日に北京郊外で盧溝橋事件がおきると,天津も戦火に巻き込まれた。米英など列国は武装中立。
1936年2月26日、1400名の日本軍兵士が東京で叛乱,重臣を殺害。しかし,叛乱部隊は原隊復帰、二・二六事件は終結。この半年、1936年8月7日,首相広田弘毅は,国策の基準(五相会議決定)を定め,大陸と南方への進出,ソ連。米国・英国に対する軍備と経済の充実を方針とした。 「帝国が名実共に東亜の安定勢力となりて東洋の平和を確保し世界人類の安寧福祉に貢献して茲に肇国の理想を顕現する」として,「根本国策は外交国防相俟つて東亜大陸に於ける帝国の地歩を確保すると共に南方海洋に進出発展する
東亜に於ける列強の覇道政策を排除し真個共存共栄主義により互に慶福を頒たんとするは即ち皇道精神の具現にして我対外発展政策上常に一貫せしむへき指導精神なり
国家の安泰を期し其の発展を擁護し以て名実共に東亜の安定勢力たるへき帝国の地位を確保するに要する国防軍備を充実
満州国の健全なる発達と日満国防の安固を期し北方ソ連の脅威を除去すると共に英米に備へ日満支三国の緊密なる提携を具現して我か経済的発展を策するを以て大陸に対する政策の基調とす
而して之か遂行に方りては列国との友好関係に留意す
南方海洋殊に外南洋方面に対し我民族的経済的発展を策し努めて他国に対する刺戟を避けつつ漸進的和平的手段により我勢力の進出を計り以て満州国の完成と相俟つて国力の充実強化を期す
外交機関の刷新と共に情報宣伝組織を充備し外交機能竝に対外文化発揚を活発にす
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 06:51

卢沟桥位于北平城西南约15公里的永定河上,歸屬河北省宛平縣,是北平通往南部各地的咽喉要道。宛平城建于1640年,是捍卫北京城的军事要塞。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 06:52

1937年6月起,日本的中国驻屯军几乎每天都在卢沟桥附近进行军事演习
1937年7月7日日本的中国驻屯军在未通知中国北平地方当局的情况下,在國民革命軍驻地附近进行“军事演习”。由於沒有通知中國守軍。國軍認為日軍進攻,緊急出動。日軍表示"遭到槍擊"後,返回軍營。入夜后声称一个兵士失踪,要求进入北平西南的宛平县城(今卢沟桥镇)搜查。国军拒绝了这一要求。此後,雖然該名士兵毫無傷害返回,但日軍依然于晚上八時开枪开炮猛轰卢沟桥,向城内的中国守军进攻,北平市市長秦德純自傳言:當晚22時確知日軍開始攻擊,秦乃派軍自市郊反擊,並未遵照南京電令炮擊在市區內日本大使館;此舉重大決定影響保護北京文化古蹟,免戰事爆發在市內,免摧毀北京文化。國民革命軍第29军37师219团(團長吉星文)反擊。
事件後第二天共产党便发表抗日通电,要求中華民國政府尽快履行在西安事变时的承诺。時任國民政府軍事委員會委員長的蔣介石7月17日庐山谈话会上宣佈准备应战和必要時守土抗战到底的決心。7月28日7月30日,日軍相继佔領北平天津中国抗日战争(又称第二次中日战争)正式爆发。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 06:54

1937年7月7日,盧溝橋Marco Polo bridge事件(七・七事変)が勃発。北京(首都でないので正式には北平)郊外に駐屯していた日本軍と中国軍の一時的な武力紛争の契機は,日中両軍接近している中で夜間演習中の日本兵1名が行方不明になり(後日帰還),その捜索中に発砲しあったことである。(陰謀説あり)
北京郊外に日本軍がいたのは,軍隊の駐屯権が国際的に認められていたためである。1898年の義和団の乱に便乗して清朝は,日,米,英,仏,独,露,伊,墺の列強八カ国に宣戦,北京の大使館を攻撃,包囲。しかし,日本軍1万3000名など7万の八カ国連合軍により北京を占領され,清朝は降伏。列強八カ国は,清朝の賠償金4憶5000万両を関税、塩税を担保として39年間で受け取るほか,公使館区域を設定、その防衛のために軍隊駐屯権を獲得。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 06:56

中国では,外国人が行政権と警察権を握った租界がアヘン戦争,第二次アヘン戦争(アロー号戦争)以来,大都市,開港場に拡張された。租界には,治外法権があり,中国から鉄道敷設権を得た列国は,鉄道付属地も租界と同様である。列強は中国に圧力をかけ,公使館の護衛,租界の治安維持,鉄道付属地の警備などの名目で,1地域につき800-1400名程度の小規模な警備兵力の駐屯を認めさせた。⇒1937-1941年の中国大陸の作戦地図をみる。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 06:57

七七事变后,日本动员几乎全部军事力量,开始全面侵华。 七七事变是中国全面性抗战的开始,中国在东方开辟了第一个大规模的反法西斯战场。国共实现第二次合作,抗日民族统一战线最终形成;红军改编为八路军新四军
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:00

中華民國

[编辑] 日本
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:01

しかし,1937年7月7日盧溝橋事件(中国では「七七事変」)が勃発したあと,事情が急転する。これは,夜間演習中に日本兵1名が行方不明になり,捜索中の日本軍と中国軍が散発的銃撃を起こした事件である。 当事の支那駐屯軍は、兵力5,774 名。軍司令部は天津にあり,支那駐屯軍司令官は田代皖一郎中将、参謀長は橋本群少将。天津には,支那駐屯歩兵第1連隊第2大隊・歩兵第2連隊を配備,北京(北平)には、支那駐屯歩兵旅団司令部,支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊510 名を配備。(第一連隊長は、後にインパール作戦を指揮する牟田口廉也大佐で、大隊長は後にガダルカナル島戦で戦死する一木清直少佐。)その他、通州、豊台、塘沽、秦皇島、山海関に小部隊を配備。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:03

盧溝橋事件当時(1937年7月7日),北京方面の中国軍は、宋哲元 (軍長) の第 29 軍。構成は,第 37 師(馮治安師長 1万5,750名),第38師(張自忠師長 1万5,400名) 第132師(趙登禹師長 1万5,000名)など14コ師,独立第39旅他3旅団。
つまり,中国軍の華北総兵力は,約 7万5,000名で,日本軍の華北駐留軍(支那駐屯軍)約6000名の10倍だった。 ただし,日本の支那駐屯軍の兵力は5771名にすぎないが,満州には,関東軍があった。関東軍の兵力は約28万名,中国の第29軍に十分対抗しうる。しかし,満州との国境でソ連軍との戦闘がありうるため,関東軍から中国へ派遣できる兵力には限界があった。また,朝鮮半島にも日本軍(朝鮮軍)が配備されていたが、これもウラジ・オストークなど沿海州のソ連軍に対抗する必要上、中国に全て移動するわけにはいかない。 日本軍『旅作命甲第1号』(旅団宛の作戦命令)(1937年7月8日1630)「歩兵第一連隊の主力と機械化部隊を確実に掌握した後、これをもって盧溝橋を攻撃す」(『支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報』)日本政府は、1997年7月11日に今次事件を「北支事変」と命名。日本支那駐屯軍の北平(北京)駐屯部隊は警備隊的存在で,日中全面戦争を戦う兵力はなかった(中国軍と戦えば負ける)。1937年の盧溝橋事件時の日本軍の戦闘詳報を見ても,現地で停戦交渉をすすめ,7月11日には交渉が成立。 日本陸軍参謀本部は,日本の中国駐屯兵力の不足(中国軍の優位),戦闘拡大時の経費・戦備の負担増加,対ソ連の兵力維持の困難,列強の反発を危惧して,華北での戦火を拡大したくなかった(不拡大方針)。日本の軍部がやみくもに中国を武力占領しようとしていたわけでは決してない。軍部とはいっても,中央にあり,国際情勢も含めて冷静な判断をしていた陸軍参謀本部は,中国での全面戦争は望んでいなかった。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:06

中国国民党と共産党の対立もあった。1936年に西安事件が契機となって,「第二次国共合作」がなったが,盧溝橋事件勃発の1937年7月の時点で,中国国民党軍と中国共産党軍「紅軍」が一体となった国共統一抗日軍(後の国民革命軍)が編成されているわけではない。中国共産党軍「紅軍」が国民革命軍「八路軍」に改編されたのは,盧溝橋事件勃発から1ヵ月半経過した1937年8月25日である。 盧溝橋事件では,日本軍に抗日救国学生の一隊が日本軍に発砲することで,中国共産党に対して攻撃を準備していた国民党軍を抗日戦争に転換させた,という陰謀説が唱えられる。統一抗日軍が編成されていない状況では,この陰謀説はわかりやすい。 いずれにせよ,盧溝橋事件の現地での混乱の中で,散発的な戦闘が続くが,決定的だったのは,日本と中国がともに戦争回避を「軟弱外交」として避けて,日中双方の指導者がリーダーシップを発揮し,軍隊を動員したことだった。 中国共産党の陰謀で日中戦争が始まったとする評者は,北京郊外に日本軍が駐屯し,中国軍を威圧していた事実を過小評価している。石炭や農産物など資源が豊富で,市場としても有望な華北は,日本が支配下におき,特殊権益を認めさせたい地域だった。1936年には『昭和十一年度北支那占領地統治計画』が作られており,1937年 7月7日の盧溝橋事件以前に,日本陸軍では華北占領地統治計画を研究していた。中国人によるの陰謀の有無に拘わらず,日中戦争は勃発したはずだ。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:08

現地で日中両軍の停戦合意がなった7月11日午後,日本では首相近衛文麿が華北への増援部隊出兵を閣議決定,午後6時半に華北増派の声明を発表。この直後、支那駐屯軍から午後8時に停戦合意した旨の報告が入電。リーダーシップ発揮に囚われた首相に取り消すつもりはない。部隊増派を決定した日本軍にも,派遣を中止するつもりはなく,2コ師団を現地に派遣。権威を重んじる指導者は,豹変できなかった。 中国軍の大兵力に威圧され,怖気づいた日本軍という汚名をそそぐために,衝突から5日もたたない7月11日に、近衛内閣は、中国への増援部隊派遣の閣議決定。世界に向けて、中国に対する強硬姿勢を公表した。ここでは,不拡大方針を謳ったが,近衛文麿首相は「出兵を決定して、日本の強硬なる戦意を示せば、中国側は、折れてくる」と信じていた。この7月11日華北出兵声明は次の通り。 「関東軍と朝鮮軍(満州と朝鮮半島に駐留するに日本軍)が準備した部隊を急遽,支那駐屯軍に増援する。さらに,内地より部隊を動員して北支に急派する必要がある。東亜の和平維持は,(大日本)帝国の念願するところであり,今後とも局面不拡大・現地解決の方針を堅持して平和的折衝の望みを捨てず,支那側の謝罪および保障という目的を達したるときには,速に派兵を中止すること勿論なり」 写真(左):北京を行進する日本軍(1940年米海兵隊員撮影):1937年7月末以来,中国軍を撤退させ,圧倒的な兵力で北京を支配下に置いた。列国の権益には手を出さなかった(出せなかった)ため,増派された日本軍より兵力的に劣る列国の駐屯部隊は黙っていた。 増援決定を喜んだ現地の日本軍(支那駐屯軍)は,1937年7月13日段階で、中国軍に北京からの撤退を求めた。そして,撤退が受け入れられない場合を予想して、北京攻撃の準備を20日までに完了することにした。つまり,日本軍の北京進駐という暴挙を中国に要求した。中国やそこに利権を持つ英米列国から見ても,日本軍の侵略性は明らかだった。1941年11月,米国政府が,日本政府に対して,中国・インドシナからの撤兵を求めたハル・ノートと同じく,中国軍が旧都北京(北平)から撤兵できないことを見越した要求は,戦争を仕組んだ陰謀とも考えられる
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:10

1937年8月15日近衛首相「暴支膺懲」声明要旨:
「帝国は永遠の平和を祈念し,日中両国の親善・提携に尽くしてきた。しかし,忠告南京政府は,排日・抗日をもって世論を煽動し,政権強化の具にニ供し,自国の国力過信,(大日本)帝国の実力軽視の風潮と相俟って,赤化(共産党)勢力と連携して,反日・侮日が甚しい。こうして,帝国に敵対しようとする気運を醸成している。(中略)中国側が帝国を軽侮し不法・暴戻に至り,中国全土の日本人居留民の生命財産を脅かすに及んでは,帝国としては最早隠忍の限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,南京政府の反省を促すため,断固たる措置をとらざるをえない」
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:18

1937年12月13日東京日日新聞(現毎日新聞)社カメラマン撮影。死体と小銃が散乱している。出典では「メモは激戦の跡としているが誤りである。死体の周辺の体液がすでに死体自体の面積を上回っている。これは銃弾命中死後少なくとも20時間は経過していることを示す。---死体は門へ向かうものもみられることから、逃亡を図った市民を中国軍が射殺したもの--。--同士撃ちの死体とみられる。」としている。中国軍には督戦隊という兵士の逃亡を抑える部隊があったようだが,軍上層部が逃亡しているときに,督戦のために多数の自国軍兵士を処刑できたのか。最高司令官蒋介石も,軍司令官も逃亡し,中国軍守備隊全軍が浮き足立った。このような時に,銃を保持する兵士たちがおとなしく捕縛,処刑されるはずがない。(兵士の反抗を恐れて)処刑を試みる指揮官もいないであろう。
報道姿勢は,ジャーナリストや情報提供者の個人的な思想・認識にも,大きく影響される。米英独の宣教師・ジャーナリスト・ビジネスマン・外交官の中には,中国人の友人・教え子・弟子・部下・取引相手をもち,中国に親近感を抱いている人物が多かった。その中国人を戦闘とはいえ殺したり,降伏した中国兵を処刑したりすれば,日本軍を非難する声が上がるのは当然である。 つまり,米英独などの列国居留民には,反日感情が高まり,それが中国国民党政府や米英のメディアによる反日プロパガンダに利用されたことはあった。しかし,プロパガンダだから真実ではないという発想は,誤りである。 南京虐殺に関しては,勇敢で名誉あるに日本軍による虐殺はなかったとする否定派が,多数の写真のうち数十枚を検討し,解説間違い,捏造あるいは合成写真とした。さらに,中国側の虐殺であると非難した。日本軍には,中国兵を捕虜として収容する施設はもちろん捕虜を後方に送る護送兵力・ドラックもない。戦闘の障害になる捕虜や敵性住民は,部隊毎に即刻処刑した場合が多かった。その後,1000名を超える大量の捕虜を獲得すると,一時的に,建物や馬屋などに収容した。しかし,捕虜のための食糧・水,食器などは準備しておらず,日本軍にとっては捕虜は大きな負担になる。 占領地の治安回復をするには,敵兵の掃討戦,敗残兵狩り,敵性住民への徹底的な弾圧だけでなく,住民を味方につけ,対日協力者とする宥和政策や親日プロパガンダも行われる。つまり,日中双方のプロパガンダ戦が戦われる。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:19

1937年12月撮影。民間人難民を受け入れる安全区を南京に設置した委員会は,米英などの列国の宣教師やNGO団体(YMCA)の長から構成された。安全区国際委員会の長は,日本と友好関係にあったナチス・ドイツのビジネスマン,ヨハン・ラーベ John Rabeである。かれは,南京事件について,重要な証言を残している。
1937年10月ともなると,南京には,日中両軍の戦闘から逃れて多数の避難民が流入していた。これは,国民党の蒋介石が,中国の首都を死守するつもりで防備を固めていたためである。1937年11月22日,南京に駐留していた米英仏独などの列国の宣教師・ジャーナリスト・ビジネスマン・外交官は,中国の難民と自国民の声明・財産を守るために,戦闘員の立ち入りを制限する安全区を,中国の同意の下に設置した。これを管理するのが,安全区国際委員会International Committee for the Nanking Safety Zoneである。 南京の中国人は最後まで南京が放棄されたと知らない者も多かったようだ。首都南京を日本軍が占領できるとは考えていなかったのであれば,あるいは南京の自宅など資産の移転が困難で,南京から避難しなかった市民もいるであろう。しかし,戦局が不利になったことを真っ先に知った中国軍の最高級司令官たちは,部下に死守を命令じて,南京を撤収,逃亡してしまう。これは,中国軍兵士の士気を大きく阻喪させた。南京の防備を固めていた中国軍も南京城内に敗走し,撤収・逃亡を始めた。日本軍の攻撃はすばやく,中国軍は南京で組織的抵抗はできなかったようだ。 こうして,中国の避難民,敗残兵,正規軍で溢れていた南京は,日本軍の攻撃の前に,南京から脱出しようとする人々で大混乱となる。入場してきた日本軍も,兵士と民間人の区別は容易でなく,区別できても軍民が混交していれば,中国軍兵士だけに砲撃・銃撃をすることも不可能である。したがって,中国軍民あわせて,砲撃・銃撃を加えるしかない。さらに,部隊長の統率力不足から,兵士たちの軍紀が乱れており,略奪,暴行が横行することもあった。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:21

1938年3月撮影。中国の民間人難民を受け入れた安全区は,中国人にとっての唯一の市内の避難所といえた。安全区国際委員会ヨハン・ラーベJohn Rabeは,ドイツ本国に日本軍の残虐行為を批判した報告書を送った。しかし,ヒトラーは,米英ソを牽制できる日本との軍事同盟の締結を望んでおり,日本軍の中国における残虐行為は黙認したである。ドイツでは,ユダヤ人,共産主義者,ロマへの弾圧が始まっていた。
南京に設置された安全区は,米英の宣教師や南京YMCA代表などが委員会をつくり運営した。委員長には,中国シーメンス社iemens China Corporation代表であるヨハン・ラーベ John Rabeが選出された。ラーベは,1936年に日本と防共協定を締結したナチス・ドイツの国民であり,日本と友好関係を保ちながら,安全区を運営することを期待されていた。安全区委員会は,日本・国際赤十字とも連絡を取りつつ,第三国の居留民だけではなく,中国人難民,特に婦女子を保護した。安全区国際委員会は,中国国民党の指示はうけない自治的な組織であり,人道的立場から日本軍の暴行や中国兵の交戦活動から中国人を守り,食糧・居住区を確保した。 安全区は,南京市街西部の8.6平方㌔の区域で,日本は正式には認めていなかった。しかし,中国軍が安全区を占領しない限り,安全区を尊重し,攻撃しないと約束した。公認はしなかったが,安全区に侵入しようとする中国敗残兵・ゲリラ兵,日本軍兵士もいたので,安全区の見回りも行った。しかし,安全区の外では,日本軍兵士による略奪・暴行が頻発し,さらに捕虜となった敗残兵・逃亡兵・敵性住民の処刑も行われていた。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:22

1938年3月撮影。安全区に入れない中国民間人のほうが多かった。戦火が収まって帰ってきた住民たちも,食糧不足,暖房用の薪炭の不足に苦しんだ。Refugee huts outside Nanking. March 1938
火野葦平(本名玉井勝則)の手紙を紹介した文化人と「南京事件」では,次のように紹介している。火野葦平は,第18師団第114連隊に伍長として従軍し、のちには軍報道部に勤務し、『麦と兵隊』を書いた文学者である。 昭和十二年十二月十五日、南京にて
 それから、戸口の方へ廻ると、中でがやがや声がして居ます。戸を破らうとしたが、頑丈で破れない。コンクリイトの厚さは二尺近くもあります。見ると、扉の横から電話線が通じてある、これは相当な奴が居ると思つたです。戸口を銃剣でつついて、「ライライ」とどなりました。支那語は知らんし、来い来い、といふ言葉で、出て来いといふ意味を云ふ外なかつたのです。
 ライライと何度もどなつてゐると、中の奴が、戸口の方へ来る様子です。出がけに打たれてもばからしいと思つてゐると、戸が内側からあいて、若い支那兵の顔が見え、向ふから銃をさし出しました。(中略)
 つないで来た支那の兵隊を、みんなは、はがゆさうに、貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、はがいい、とか何とか云ひながら、蹴つたり、ぶつたりする、誰かが、いきなり銃剣で、つき通した、八人ほど見る間についた。支那兵は非常にあきらめのよいのには、おどろきます。たたかれても、うんともうん(ママ)とも云ひません。つかれても、何にも叫び声も立てずにたほれます。  中隊長が来てくれといふので、そこの藁家に入り、恰度、昼だつたので、飯を食べ、表に出てみると、既に三十二名全部、殺されて、水のたまつた散兵濠の中に落ちこんでゐました。山崎少尉も、一人切つたとかで、首がとんでゐました。散兵濠の水はまつ赤になつて、ずつと向ふまで、つづいてゐました。(引用終わり)
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:23

1937年12月米国人宣教師Ernest Forster撮影。民間人のようにみえても,ゲリラ兵,敗残兵,逃亡兵がいるかもしれない。捕虜として兵士はもちろん,体つき・顔つきから敵性住民を選別して,拘束した。これは,治安対策の一環である。拘束後,1万名以上の捕虜を管理できなくなった日本軍の現地部隊は,捕虜を処置するほか選択の余地がなくなってしまう。Persons executed by Japanese soldiers in Ku Ling Temple. Photo taken by an American missionary, Ernest Forster.
日本では南京事件が残虐行為としてよく話題になるが、その直前の上海事変でも、陸戦だけでなく、海上の艦艇からの砲撃を加え,大型機,小型機の空爆を市街地に(中国軍の陣地があるため)行っている。そこでは、建物が破壊され,駅で多数の人々が死傷した。各地で多数の死傷者が外国人にも目撃され、メディアを通じて列国に知らされた。殺害の方法は,銃殺,刺殺,斬首,砲撃,爆撃などさまざまであるが,無抵抗な人々(捕虜,武装解除された兵士,民間人)を処刑するのは,現在から見れば残虐行為である。
日本軍は,上海の外国租界には直接介入はせずに、中国地区占領を図り,11月9日、接収をほぼ完了する。 しかし,都市・農村を占領しても,そこに住む中国人が日本に従順に従うようになるわけではない。反日感情,抗日(地下)運動,破壊工作が存在していれば,日本軍は以前にもまして,占領地の治安維持のために,機微シィい処置をとるであろう。また,ゲリラ,便衣兵の探索のために,兵力を追加配備しなくてはならない。土地を占領し続けるのも難しいが,人の精神,行動を支配するのはより困難である。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:25

南京大屠杀指1937至1945年中国抗日战争期间,中华民国南京保卫战中失利、首都南京于1937年12月13日沦陷后,日军于南京及附近地区进行长达数月的大规模屠杀。其中日军战争罪行包括抢掠、强奸、对大量平民战俘进行屠杀等。屠杀的规模、死伤人数等没有世界共同认可的数字,但一般认为死亡人数超过30万。


  在中国,南京大屠杀往往是民族主义的重要关注点。而在日本,公众对南京大屠杀的认识存在着广泛不同的情绪及观点,尤其是日本部份极右份子,认为南京大屠杀是被夸大、甚至是凭空捏造的反日本外交工具,也有人认为否认南京大屠杀是历史修正主义、否认主义的表现。由于日本人对南京大屠杀的意见着广泛的分歧,因此视乎讲话者的观点,南京大屠杀可能被称为“南京大虐杀”、“南京虐杀”、及“南京事件”等。对南京大屠杀的认识,是中日外交及人民关系中存在的问题之一。


  而在欧美等西方国家,南京大屠杀一般英译为Nanjing Massacre(南京屠杀)或Rape of Nanjing(南京的洗劫、南京的强奸)等字眼,但总体上人民对其的认知往往远不如对纳粹的种族灭绝过程的认知。


  亲历和目睹“南京大屠杀”的中国人日本人尚健在的已经不可多得了,能作见证的人亦即将与时俱逝。但是,这个中国历史上空前的惨案还悬而未决,让我们活着的,尤其是作为这段历史的见证人的一代,有责任把“南京大屠杀”这件在第二次中日战争中最突出的惨绝人寰的日军罪行,彻底澄清,以对祖先,以儆子孙,更为“南京大屠杀”中死难的34万同胞伸冤。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:27

日期与地点:在南京审判(1946年1月至1948年11月)时,亲历“南京大屠杀” ,曾任“南京安全区国际委员会委员”的梅奇牧师(返美后任耶鲁大学驻校牧师)、贝德士教授(金陵大学历史教授,后任该校副校长,返美后任纽约联合神学院教授) 及南京红十字会副会长等出庭作证。贝德士说∶“南京失陷后在两礼拜半到三礼拜的期间恐怖达于极点,从第六礼拜到第七礼拜的期间恐怖是严重的。”另外南京安全区国际委员会司库和秘书金陵大学社会学教授史迈士也对南京审判法庭说∶“在最初的六个礼拜中,曾每天提出两次抗议。”于是远东国际军事法庭才有“在日军占领后最初六个星期内,南京及其附近被屠杀的平民和俘虏,总数20万人以上” 的裁定。据此,学者及一般人多沿用“南京大屠杀”只为期六个星期。“南京大屠杀”不只是六个星期,虽然这六个星期的屠杀最为严重。


  如果我们需要确切说明“南京大屠杀”的最严重阶段,那应该是从1937年12月13日 南京沦陷至1938年2月5日,新任日本南京守备司令官天谷直次郎到任。两天后,日本上海派遣军总司令松井石根曾下令恢复南京秩序。尽管有松井上将和天谷少将的允诺,日军在南京的屠杀、奸淫、掠夺、放火并没有显著的改善。当时纳粹德国驻华大使馆政务秘书乔治·罗森于1938年2月10日自南京发往柏林外交部的电报还说∶“日本人在南京的恐怖统治已达无以复加的程度。”他于3月4日的电报更清楚地分析日本人暴行的情形∶“二月份及本月近几天南京及其周围的形势已有些稳定……日本人的暴行在数量上已有减少,但在性质上没有变化。”罗森还提到直到他动笔写信那一天(3月4日),南京还看不到一家中国商店 。史迈士教授在其1938年出版的《南京战祸写真》中说,南京市区在1938年3月份,有许多大门还是封着的。再有蒋介石的德国顾问团团长法尔肯豪森,当时留在南京在德国大使馆工作,其遗稿中记有“一个日本兵于三月十九日在美国教会院内强奸一女孩”。上述留在南京的西洋人所报道的南京二三月的恐怖情形完全符合很多留京的中 国人所作之记述。南京失陷后未及逃出的野战救护处处长金诵盘及其科长蒋公谷两 位医生于1938年2月15日搭美侨李格斯的汽车作南京陷后对市区的首次巡示 ,蒋氏于其《陷京三月记》有如下之记载∶“出新街口,经太平路,夫子庙,转中山路,沿途房舍,百不存一,……行人 除敌兵外,绝对看不到另外的人,一片荒凉凄惨的景象,令我们不忍再看。”
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:29

蒋介石的卫队中央军官学校教导总队的郭岐营长于南京沦陷后三个月逃出,著有《陷都血泪录》,连载于1938年8月之《西京平报》。战后,郭在中国审判战犯军事法庭出庭作证,对质日军第六师团长谷寿夫为“南京大屠杀”的疯狂刽子手。郭写到∶“有人说兽兵刚进来头三天总是放枪奸淫烧杀的……结果过了一礼拜不见停止,过了三个月仍不见停止!”另一位教导总队的士兵营长钮先铭,系日本士官学校毕业,抗战开始时,正肄业法国军校,当即遄返报国。南京陷敌后,钮落发为僧,潜居八个月始逃出南京,现仍健在并息影于美国洛杉矶。在其所著之《还俗记》中,描述他化装和尚搭京沪 火车脱险,在车厢内的情景∶“当时京沪沦陷已半载有余了,日军为了确保他们的统治权,宪兵当然已不便在公共场所明目张胆地杀人,……在鬼子宪兵监视下,我不敢过分地东张西望;因此我又收回了我的视线,闭上眼帘,一只手搓着颈项上所挂的佛珠子,以作念佛状 。”一位文化人李克痕于南京城西乡村躲避两个多月后,于1938年3月初入南京城,6月3日逃离南京,著有《沦京五月记》,连载于1938年7月的汉口大公报》。李描述其在南京所见∶“近来日兵奸淫妇女的事,在白天虽少有见到,但在晚间仍多得很。我女同胞行大街上,日兵见之即趋前阻拦,籍检查为名,遍摸全身,百般调戏,任意玩弄,但也只好忍辱含羞,听其胡为,否则,刺刀举起,立刻戳死,故在白天,大街上没有一个妇女的影子。”
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:30

南京的恐怖局面一直持续到1938年的夏天,虽然明显的在3月中旬以后,屠杀和奸淫的程度逐渐减少。可以说三月中旬到5月底是“小屠杀”时期。最有力的证明就是两个慈善机关(世界红十字会南京分会及中国红十字会南京分会)于1938年5月份埋葬806人的记载。林娜在其《血泪话金陵》中道出其缘由∶“从日本兵进城起,到我离开止——五月二十日——掩埋尸骸的工作从未停止 ,其实埋也埋不了,一批被埋掉,马上又有一批新的来补充。”南京虽早在1938年元月一日即有汉奸自治委员会的成立,以陶宝庆及孙淑荣为正副会长,但未能使日军的烧、杀、奸、掠稍搁,以致“小屠杀”继续到1938年的夏天。南京的秩序直到1938年11月梁鸿志的“维新政府”(3月成立于上海)还都南京时,始得恢复。客观地判断,“南京大屠杀”的期限应该说是“半年”,或者说三个月的“大屠杀”和三个月的“小屠杀”,才与事实符合。“东京审判”的判决说∶“在日军占领后最初六个星期内,南京及其附近被屠杀的平民和俘虏,总数达20万以上。”又说∶“在城外的人比在城内的人稍稍好一点。在南京四周200华里(66英里)以内的所有村庄,大体上都处于同样的状态。”“南京四周200华里”应即为上述之“南京及其附近”。这正好是东起于南京城东北,长江南岸之乌龙山,经尧化门、仙鹤门、麒麟门、马群、苍波门、 高桥门、上方镇越秦淮河而西向花神庙、吉家凹,再越江南(即京赣)铁路,再东北上直趋江心洲对面之上河镇。实际上,这也就是保卫南京的防线,主要是南京之东南两方,也是人烟稠密的区域。同时,这一区域是南京防御的战场,村民多在日军未到前远走逃避。或入南京城避难,所留者多为老弱和妇孺。日军所至,未及逃避者,几乎极少幸免。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:33

日军20万分六路逼向南京,一路屠城奸淫,屋舍城墟,人烟绝迹。日军第六师团于11月5日在杭州湾之金山卫登陆后直接北上破松江城。据英国“曼彻斯特 卫报”著名记者田伯烈报道一位英国记者于1938年1月14日亲赴松江考察后 所发的电报∶“松江全城本来可以容纳10万人左右的居民,我却只看见五个年老 的中国人,躲在法国教会的一幢宅子里,流着眼泪,他们已经断食,恳求我带到上 海。” 有中国威尼斯之称的苏州为日军第三师团于11月19日攻陷。据1938年 上海《密勒氏评论》一篇文章报导∶“美丽古雅的苏州城原有35万居民,日军占 领该城后,只剩500人了。”但最痛心的事情还如下述∶“就是日军侮辱各种阶 层的妇女。兽欲勃发的日本兵到底奸污了多少妇女,恐怕没有人能够估计。”稣实 在其最近所著之《中国妇女作日军慰安妇》一文中说∶“苏州城陷后有二千多妇女 被掳。”蒋介石夫人宋美龄女士在其1939年1月15日重庆《中央日报》所发 表的《抗战建国与妇女问题》一文中证实,日军不仅将被掳妇女编号供奸淫,甚至 当众将被掳妇女“剥掉衣裳,在肩上刺了号码。一面让我们女同胞羞耻,不能逃跑 ,一面又充当他们的兽欲的工具。” 素有“小上海”之称的无锡,为一工业中心,平时人口达90万人,1937 年10月下旬以来几乎每日均遭日机轰炸。据上述《密勒氏评论》文章所载,11 月10日日军于一日之内竟投炸弹160余颗,全城工厂与商业区尽成瓦砾,军民 死伤无算。恶名昭彰的日军第十六师团所属之第二十联队(相当于中国的团单位) 于11月26日陷城后,大施屠杀,纵火焚城达十余日。据该联队第三大队上等兵 北山于1987年公布之《北山阵中日记》所载,日军入城后不分军民一律屠杀。 上述稣实的文章里报导日军在无锡掳夺中国妇女3000人,其中为军官所占有, 随军押向南京者为数不少。日军于11月29日陷常州(武进)。按《北山阵中日 记》所载,日军接上级命令,所掳居民皆杀,结果四千余人被屠。 镇江为南京之屏蔽,运河中枢,且系江苏省会,日军于12月9日破城后,数 千未能离境之难民皆遭屠杀,妇女被轮奸致死者极多。后来红十字会收尸共300 0具。当时年仅7岁的尹正美,全家五口居镇江城内,其祖母、母亲、大爷和哥哥 皆死于日军屠刀之下,本人之后背被日兵刺了3刀,后被救活,现居北京,其背後 3刀伤痕仍清晰可见。尹女士已撰文报导其受害经过,在《日本侵华研究》第十六 期发表。 田伯烈在其书中提到∶“中立的外国观察家曾赴日军占领下扬子江下游三角地 带旅行视察。据他们的报告,破坏毁灭的情形,决非局限于上海及其附近。……生 产和生存工具的全部绝灭比较几千几万人牺牲于奸淫屠杀之下,其影响实在更为可 怕啊!”田氏估计上海附近三个月的战事,造成中国官兵伤亡至少30万人,平民 的死伤数目也不相上下。但是,最可怕的“南京大屠杀”继踵而至。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:35

日军近八个师团约20万人,此外还有飞机助战,海军游弋长江(因其武器精良,火力优于中国军队的三倍),分六路围攻南京。守军约12万人(除教导总队 及宪兵两团外,有十三个师)。日军第十三师团之一部连同第十一师团之一部编成 之天谷支队于镇江北渡长江,先取扬州,再西向迂回南京对岸之浦口。第十三师团 的六十五联队组成山田支队沿长江南岸直趋下关。第十六师团于12月5日进据句 容后,其第三十八及三十三联队绕汤水镇经紫金山(针山)北麓奔向下关之东煤炭 港江边,以其第九及二十联队攻麒麟门经马群由紫金山南麓直逼中山门。第九师团 第七、三十五、三十六,及十九各联队在第十六师团之南并进,奔向光华门及通济 门。第十军所属之第一一四、第十八及第六师团自杭州湾登陆后即西向,经太湖之 南,其中第一一四师团绕太湖南岸北上取宜兴,经溧水而攻南京城西之花神庙、雨 花台、而中华门。第六及第十八两师团西进,于11月30日陷广德后,第十八师 团及伪满于芷山旅继续西进,于12月8日陷江南重镇芜湖。第六师团之第十三、 四十七、二十三联队即北上为第一一四师团之左翼进攻中华门;其第四十五联队由 最左翼直奔下关。另有第五师团之第四十一联队,由国崎登旅团长率领之国崎支队 未参加广德战事即北上,经固城湖及石臼湖之南,于马鞍山之北渡长江而东向浦口 ,对南京形成包围之势。 12月9日南京外围要地龙潭汤山、淳化镇、秣陵关尽失,于是环城防卫战开 始。12日晨日军攻陷城西南之中华门。当日下午五时,自告奋勇保卫南京之投机 军阀唐生智长官召集师长以上人员开会宣布撤退,部队由下关渡江北上与正面突围 南下;唐迅即渡江北逃。入夜后,南京彻夜枪声不停,各奔生路,无路可走的官兵 多化装到老百姓家,特别是国际安全区藏匿。日军于13日晨9时许始由中华门及 中山门涌入市区,三个月的“南京大屠杀”随即开始。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:36

外国雑誌に,日本兵が屍を埋める壕で,中国兵捕虜を銃剣で刺殺した。出征記念写真が,現地写真館で現像された際,働いていた中国人が密かに写真を焼き増して,米国メディアに持ち込んだり,売却したりした。
日本軍兵士個人が撮影した「勇猛果敢な戦闘」の記念写真を,上海や南京の写真館で現像した。その際,働いていた中国人が密かに「残虐行為」に憤り,写真を無断で焼き増しして持ち出した。それが,米英メディアの手に渡り,1938年から残虐行為(勇猛果敢な戦闘)の写真がLife,Time,Lookなど米英のメディアで公開されるようになる。 それまで,日本軍は,従軍記者・従軍カメラマンには厳重な報道管制を強いていたが,残虐行為の写真は,この公式ルートでなく,日本軍兵士の個人的な写真撮影から流出していた。上海など中国でカメラを購入し,戦場にカメラを持ち込むような日本軍兵士が少数いたし,中国に住む日本人居留民の中には,記念写真撮影を商売として写真屋もあった。彼らが日本軍の攻略した南京で,勇ましい行為や凱旋勝利記念の写真を撮影し,日本軍兵士に販売していた。
作者: 吴翔    时间: 2009-7-8 07:43

民間人のようにみえても,便衣隊・敗残兵,ゲリラ兵,逃亡兵がいるかもしれない。体つき・顔つきから敵性住民を選別して,拘束した。これは,治安対策の一環である。1937年12月に南京を陥落させたが,日本軍は多数の中国兵捕虜を収容する施設も,護送兵力も,食糧も用意していなかった。捕虜拘束後,管理できなくなった現地部隊は,捕虜を処刑したようだ。Pictrial Reviewに掲載された写真。
このような事情を知った日本軍は,1938年後半になると,兵士個人の写真撮影や現像を,軍によって厳しく規制するようになる。米英メディアの反日プロパガンダの反響が大きかったことを懸念した日本が,個人撮影の勇猛果敢な戦闘の写真を含め,幅広い範囲に厳格な情報管理を始めたのである。 また,日本軍の内部にも,南京事件のような敵を利するような行動を抑制する必要性が理解されてきた。これは,慰安所の拡充にも繋がるが,日本軍兵士による残虐行為を抑制するようになったと思われる。さらに,中国民衆と日本軍兵士の親交や新たな平和の構築を謳った写真入の親日プロパガンダも行われた。こうして,1938年の写真規制,婦女暴行の取り締まり,慰安所の拡充以降,新たに撮影された残虐行為(勇猛果敢な戦闘)の写真は,ほとんど公開されなくなる。
作者: 畅哥    时间: 2009-7-8 08:40

吴先生有心了!关注一下!谨记历史教训和耻辱!
作者: 江村居士    时间: 2009-7-8 12:22

1998年旅次北京的某天,独自离队凭吊了卢沟桥和宛平城,归来写成《宛平印象》一篇。和八达岭上的游人如织相比,卢沟桥头显得冷清多了,虽说去卢沟桥的路程要近得多近得多。然而冷清归冷清,置身宛平城下、卢沟桥头,分明能感受到比万里边墙重得多重得多的那份沉重……




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